道場の歴史
習成館創設者、柴田衛守は嘉永2年(1849年)10月21日、三河以来の直参旗本柴田家の長男として四ツ谷仲殿町(現在の学習院初等科のある通り1つ隔てた近接地)に生まれた。父政雄は、幕府の槍術指南役で本心鏡知流槍術師範。八歳で鞍馬流金子助三郎に入門、その息熊一郎に就いて修業した。柴田衛守の前半生は幕末維新の動乱期と重なって進んでいく。安政3年に8歳で鞍馬流金子助三郎に入門した4年後に桜田門外の変が起き、慶応2年に18歳で鞍馬流の免許皆伝を得た2年後、江戸城無血開城に続き、新時代明治を迎える。武士の世が終息していく中で、衛守自身も幕臣の身分を失い苦労を重ねるが、講武所剣術教授方間宮鉄次郎に小野派一刀流(忠也派一刀流)を学ぶなど、時代の流れに抗うように剣の修行を続けた。そして廃刀令の翌年、明治10年の西南戦争では陸軍看護長として従軍している。明治10年10月上旬、大阪でうつった硝子板の写真は、戦地から帰還してからのことで、断髪をまんなかで左右に分け、着物に縞の袴、襟にマフラーをかけて、腰に大刀を差している。このとき、衛守29歳。銃砲などの様式軍備に押され一時衰退していた剣術は、田原坂の戦いの白兵戦に投入された警視庁抜刀隊が挙げた戦果などで見直され、明治12年に警視庁は巡査への剣術の教習を決め、各流派を代表する師範たちを撃剣世話掛に採用した。柴田衛守も同年、警視庁に奉職、四谷警察署の撃剣世話掛となり、同年、四谷箪笥町に道場を開く。道場と胸を張っていえるほどの体裁ではなかったという。習成館の名は、勝海舟の命名で、海舟直筆の横額(戦災で焼失)が道場の奥に掲げてあったという。近くに住む山岡鉄舟が、「金では手伝えないから、、、」と、稽古着三枚をお祝いとして門人二人が届けに来て、土間の土を均等にならしたうえ、丹念に突き固めてくれた、という。しかし、たちまち潰れてしまった。以来、この道場をふくめて四つの道場(四谷箪笥町、四谷塩町、四谷荒木町)を興しては潰している。四谷左門町に習成館を興したのは、明治19年のことだが、大正6年1月号『武侠世界』の「剣を学ぶ六十年」という記事で、「すっかり道場に愛想をつかした私はもう道場を開く気がなかったのであるが、徳川の方々が来られて柱を建て蓆(むしろ)を敷いて道場にしてしまい、それから段々盛んになるに連れて手狭と不自由とに迫られて、今のようなものを建てたのである。それから漸々と集まって来られて今日のやうになった」というのである。
高野佐三郎が、岡田定五郎に屈辱的な敗北を喫したのち、秩父から上京してまっさきに訪ねたのが習成館道場であった。柴田衛守は佐三郎の存念を聞くと、「それなら山岡さんの道場に行きなさい。あそこは東京でいちばん猛烈な稽古をしている」といって、佐三郎の持参した道具を見て「その道具じゃ役に立たない。うちにあるのを持っていきなさい」と道場に備えてある道具を佐三郎に貸し与えた、という。
明治43年、小澤愛次郎が剣術一途に修業を再開したのも習成館であった。小澤愛次郎は一日に朝夕の二回、習成館で稽古した。衛守は「小澤さん、太刀はノロハヤの太刀でなくてはいかん。ノロハヤの太刀を遣いなさい。」といった、という。
柴田衛守は、大正4年大日本武徳会剣道範士、警視庁剣道主席師範をつとめた。大正7年信濃町(現在の道場の場所)に道場は移転した。信濃町の道場は、三間半に五間、正面に塩谷時敏(漢学者、第一高等学校教授、撃剣部長)揮毫による「習成館」の大横額が掲げてある。大正14年9月10日、76歳で没。
昭和10年に行われた習成館道場初代館主、柴田衛守範士追悼記念大会の写真がある。昭和20年の戦災で焼失する前の旧道場の様子を今に伝える貴重な写真である。中央で赤ん坊を抱いているのが柴田勧二代目館主、その前で正座している半袖シャツの少年が柴田鐵雄三代目館主(小学4年生)。小澤愛次郎、小澤丘、岡田守弘、南里三省諸氏の姿が見られる。
柴田勧二代目館主は、昭和17年7月3日、56歳で没昭和20年戦災で道場は焼失し、戦災から苦節40年を経て、ようやく平成元年12月再興することになる。新しい道場は、地下1階で近代的施設のもと剣道と鞍馬流剣術の稽古が今日も行われている。「剣ヲ治メテ門ヲ立ツ」、これからも時代の荒波に揉まれながらも維持、発展していく道場「習成館」でありたい。